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概要
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵におなじ。
『平家物語』巻の一「祇園精舎」より
『平家物語』は平家の栄華と没落、武士階級の台頭などを軸に「仏教的な無常観」を描いた「軍記物」の最高峰です。
当初は琵琶法師が弾き語りで伝えてきた話で、後に文書にて記録されたものは鎌倉時代に成立したとされています。
作者は不明で、本編の十二巻 と「灌頂の巻」を含め全十三巻で構成。
この世の無常と鎮魂の物語
祇園精舎の鐘の声
仏陀が説法を行なった代表的な寺院の事で、正式名称は「祇樹給孤独園精舎」
この堂の鐘の音は「この世の一切は変化し続け、同じ状態を保つは出来ない=諸行無常」という真理を告げるとされている。
諸行無常
仏教用語。「この世の物は全て、常に流動変化するものであり、一瞬とも存在は同じ状態を保持することが出来ない」という意味。
沙羅双樹の花の色
沙羅双樹とはインド高地に自生する常緑高木で仏教三大聖樹のひとつ。
仏陀がこの木の下で入滅(死去)した際に花の色が抜け落ちて白くなったと言われる、滅びのイメージを持った花。
「この世の一切は変化し続ける」事を暗に表している。
盛者必衰
仏教用語。「栄華を極めてた者も必ず衰える」という意味。
冒頭の「祇園精舎の鐘の声」から始まるこの一文は仏教に密接に関わっており、滅び・死のイメージが付き纏います。
ここからもわかる通り、『平家物語』とは「この世の無常」を描くと共に、平家をはじめとした非業の死を遂げた人々の魂を「鎮魂」するという側面もあります。
主な登場人物
※登場人物が非常に多いので、中心人物のみ
【平家】
平忠盛 平清盛の父。身分差別に屈せず、機転を利かせ出世していく。
平清盛 平家の棟梁。平治の乱で源義朝に勝利。平氏政権を樹立し一門を繁栄に導くが、多くの恨みも買う事になる。
平時子(二位の尼) 清盛の妻。
平滋子(建春門院) 時子の妹。高倉天皇の母。
平時忠 時子・滋子の弟。「平家にあらずんば人にあらず」の人。
※「平家にあらずんば人にあらず」は「平家じゃないと出世は難しいよ」位の軽い意味だった説、時忠はそもそも言ってない説、酒の勢いだった説もある。
平重盛 清盛の嫡男で平家の良心。父・清盛に意見し止める事が出来た唯一の人物。彼の死により清盛と後白河法皇の対立が激化する。
平宗盛 清盛の三男。清盛の死後平家の棟梁となる。平凡で子煩悩。武将には向かなかったが泳ぎが上手い。
平知盛 清盛の四男。清盛・重盛亡き後の平家を影で支え続けた実質的な総大将。平家の滅亡を見届け入水。
平重衡 清盛の五男。南都焼討事件で東大寺大仏や興福寺を焼亡させる。一ノ谷で捉えられた後、鎌倉へ護送されのちに処刑される。
平徳子(建礼門院) 清盛の娘で安徳天皇の母。栄光からの衰え・哀しみの日々を過ごす中で、自らの人生に六道を見る。
平維盛 重盛の嫡男。富士川・倶利伽羅峠での敗北。都落ち後に戦線離脱し(本作品では)入水自殺する。
平資盛 重盛の次男。殿下乗合事件を起こす。和歌の才有り。
平敦盛 清盛の甥。美少年。一ノ谷の戦いでの討死は『平家物語』の名シーンの一つ。
【皇族】
後白河法皇 平清盛・木曽義仲らと政治の実権を巡り激しく対立。幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるが、毎回見事な復活劇を披露するアグレッシブ天皇。
以仁親王 (『平家物語』では)後白河法皇の第二皇子。英才の誉が高く、皇位継承の有力候補であったが、平家の妨害に遭い阻止されてしまう。“平家追討の令旨”を下したことで源氏が挙兵。源平合戦が始まる。
高倉天皇 後白河天皇の皇子。安徳天皇・後鳥羽天皇の父。後白河法皇・清盛に翻弄される。
安徳天皇 高倉天皇の皇子。1歳(数え年3歳)で即位。壇ノ浦にて時子に抱かれ入水。享年6歳
後鳥羽天皇 高倉天皇の皇子。三種の神器がないまま即位。才能豊かなアグレッシブ天皇2号。のちに承久の乱を起こす。
【源氏】
源義朝 頼朝・義経らの父 平治の乱で敗北しその後死亡。
源頼政 清盛から信頼されていた源氏の長老。しかし平家の横暴をみかね以仁親王と結んで挙兵。妖怪退治もする。
源頼朝 義朝の子。平治の乱敗戦後、伊豆に流されるも以仁親王から“平家追討の令旨”を受け挙兵。
源義経 義朝の子。戦の天才で数々の戦功を挙げるが、独断的な行動を重ね頼朝の不興を買ってしまう。
木曽義仲(源義仲) 頼朝・義経の従兄弟だが、父の代の遺恨により関係は険悪。野生児。
熊谷直実 一ノ谷の戦いに参戦した武将。平敦盛との一騎討ちが有名。
巴御前 義仲の愛妾。東国へ落ち延びる。
【他】
祇王 美しい白拍子。清盛に見染められるが…
佛御前 清盛の元を訪ねてきた、白拍子。絶世の美女と言われる。
俊寛 鹿ヶ谷の陰謀が発覚し鬼界ヶ島に流される。
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あらすじと見どころ
各巻の説明に入る前に、重要な部分を整理してみます。
※あくまで『平家物語』内での時系列の為、史実とは異なる可能性があります。
【保元の乱】
平家と源氏の対立の始まりとなる政変。
皇位継承問題や摂関家の内紛により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれ衝突した。
藤原氏・平氏・源氏がそれぞれ一族を2つに分け争い、結果崇徳上皇方が敗北し。上皇は流罪となる。
朝廷の内部抗争に武士の力を借りた事で、武士の存在感が増し、武家政権へ繋がるきっかけの一つとなる。
【平治の乱】
平氏が全盛期を迎えると共に、源氏の平氏への恨みが深まる事になった政変。
保元の乱で源義朝が父を殺してまで後白河天皇に尽くしたのにも拘らず、天皇は義朝を冷遇し、清盛を重用したことに不満を持っっていた。そこに朝廷内の争いが加わり平治の乱が勃発。しかし結果は源氏側の敗北。
清盛は源氏棟梁・義朝をはじめとした、源氏の主力陣を容赦無く殺害した為、源氏は勢力を大いに削がれてしまった。
源氏嫡男・頼朝は伊豆へ配流、また義経は鞍馬寺へ預けられ死を免れた。
平氏は彼らを滅亡へ追いやる芽を摘み損なってしまったのである。
清盛は武士として初めて太政大臣に任命され、一族は栄華を極めていった。
【鹿ヶ谷の陰謀】
源氏の勢力を削ぐ事に成功し、清盛はじめ平家一門は権威をかさに、横暴な振る舞いが目立ち始める。
「祇王」
「殿下乗合」
徐々に平家に不満を持つものが増え始め、当初は清盛を厚遇していた後白河法皇までもが頭を抱え出した。
法皇をはじめ、藤原成親、西光、俊寛といった平家に不満を持つ者達が鹿ヶ谷に集まり平家打倒の密談をした。(鹿ヶ谷の陰謀)
密談の最中、倒した瓶子(へいし=とっくり)を見て「平氏(瓶子)が倒れた」と平氏と瓶子をかけた茶番が繰り広げられたが、この密談は参加していた者から清盛の知るところとなり、直ちに参加者は処罰を受けることになった。
これが源平合戦の前夜譚である。
【治承・寿永の乱=源平合戦 始まる】
鹿ヶ谷の陰謀が発覚後、以仁親王は源頼政と結び平家追討の令旨を発する。
以仁親王と源頼政は平等院の戦いで敗北・死亡するが、平家追討を心待ちにしていた源氏の一族が各地で挙兵。
これが治承・寿永の乱(=源平合戦)の始まりで、6年にわたって続く事になる。
石橋山の戦い
富士川の戦い
平治の乱で源氏の勢いを削いだ平氏は、当初源氏を侮っていたが宮廷の雅な生活に慣れ、本職(武士)から遠のいて久しかった為、話に聞いた東国武士達の実力に怖気付き出す。
その結果、富士川で水鳥の飛び立つ音に驚いて敵前逃亡するという、大恥をかくことになった。
【南都焼き討ち事件と清盛の病死】
富士川の敗戦は、かつて見逃してやった頼朝に恩を仇で返された形にもなっており、清盛を激怒させた。
また同時期、清盛が強行した福原遷都が施設不備の為、平安還都を余儀なくされていたが、その間にも各地で反平家勢力は拡大し続けていた。
清盛は、東大寺や興福寺の反平家勢力を一掃する為に、平重衡を南都(奈良)に向かわせ、南都を広範囲に渡り焼き尽くしてしまう。
この広範囲の火災により多くの寺院や仏像・仏具・経典などが焼失し、東大寺の本尊の大仏も著しく損傷した。
この事件で、清盛は「仏敵」と見なされ、平家は四面楚歌の状況に追い込まれた。
そんな中、信濃を拠点にしていた木曽義仲(源義仲)も、平家打倒を各地の源氏に呼びかけるとみるみるうちに勢力は拡大。平宗盛がこの鎮圧に向かおうとするが、清盛が急病で倒れた為出兵は中止となった。
清盛の体は注いだ水が沸騰するほどの高熱で、数日苦しんだ末に亡くなってしまう。
妻・時子に遺言を求められると「葬式は不要である、頼朝の首を私の墓前に供えよ」と述べたという。
【平家一門の都落ち】
義仲は倶利伽羅峠の戦いで平家軍を壊滅させ、その勢いで都から平家を追い出し入京。
頼朝の首を求めた清盛だったが、木曽義仲によって平家は都を追われてしまう事になる。
義仲は都の人々から「旭将軍」と呼ばれ歓迎されたが、義仲軍が都で山賊のような狼藉を多数働いたために人気は瞬く間に失墜。更に義仲軍は勢いを盛り返した平家に水島の戦いに敗れてしまう。
後白河法皇は義仲軍の蛮行や敗北を理由に義仲追討の院宣を頼朝に下した。
頼朝は弟・義経を都に派遣。宇治川の戦いで義仲軍を破り、義仲は粟津の戦いで討死した。
平家討伐は頼朝に任せられる事になった。
【平氏滅亡】
平家は勢いを取り戻し義経率いる頼朝軍と戦いを繰り広げるが、三草山の戦い・生田の戦い・一ノ谷の戦いと連敗し敗走を重ねる。
平宗盛は、安徳天皇とその母・徳子(建礼門院)を連れて陣を置いていた福原を脱し、屋島の戦いに挑んだ。
この戦いでの有名なエピソードに「扇の的」があるが、この平氏側の挑発も那須与一の起用により失敗。
屋島も敗走しいよいよ追い詰められた平家は、壇ノ浦の戦いに挑むことにる。
しかし義経が(独断で)味方につけていた熊野水軍や、潮の流れの変化などで平氏側の敗北。壇ノ浦にて平家一門の滅亡が決定した。
平家の人々は次々と壇ノ浦の海へと入水。
安徳天皇は祖母の時子(二位の尼)と共に、三種の神器も平家と共に沈んでいった。
八咫鏡と八尺瓊勾玉は回収されたが、天叢雲剣はついに見つける事が出来ず、永遠に失われてしまった。
平家の棟梁・平宗盛は入水後も死にきれず、息子と共に捕らえられ、後に処刑された。
徳子(建礼門院)も入水を後が助けられ、以後、出家して一族の供養に勤めた。
清盛の直系の男子にあたる六代も頼朝の死後処刑され。この六代の死によって清盛の嫡流子孫は途絶えた。
ここで『平家物語』本編は幕を閉じる。
【生き残った徳子(建礼門院)のその後】
『平家物語』本編十二巻の後、エピローグ的な章「灌頂の巻」がある。
灌頂
仏教用語で、師が弟子を正統な後継者とするための儀式のこと。
琵琶法師の間で「灌頂の巻」が特別な秘伝の章であることがうかがえる。
軍記物の中の一編だが戦争の描写は一切なく、壇ノ浦で助けられた徳子(建礼門院)のその後が描かれる短い章である。
壇ノ浦後、出家した徳子は寂光院で平家一門の供養をしながらの質素に暮らしていた。そこへ、後白河法皇が訪問に来る。
舅嫁の関係でもあり敵同士でもあった両者は、涙を交えながら語らい、徳子は「六道の沙汰」を後白河法皇に語る。
(ここに後白河法皇と平家の和解が成立している)
時は流れ、徳子は二人の尼に看取られながら極楽往生を遂げた。二人の女房もやがて往生を遂げた。
まとめ
『平家物語』は仏教的な観念から、平安時代末期を生きた人々のドラマを力強く描いています。
戦いの合間に語られる人々の非常に人間臭く、血の通った生き生きとした描写は普遍的で、これからも人々の心に残ってゆくでしょう。
この記事が『平家物語』を読み解く助けに少しでもなれば幸いです。