記紀神話

【ざっくり記紀神話】37.第十六代 応神天皇紀

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※『日本書紀』版を元としています。

※神名などの表記も、極力『日本書紀』版に合わせています。

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【あらすじ/要約】

即位

●母后摂政(神功皇后)が崩御した翌年に即位。
●即位2年3月、仲姫命を立后。子に大鷦鷯尊(仁徳天皇)らがいる。また皇后の姉の高城入姫命との間には大山守皇子らを得た。

甘美内宿禰の讒言

●即位9年 武内宿禰について、その弟の甘美内宿禰が兄を廃そうとして天皇に讒言した。それは武内宿禰が筑紫と三韓を率いて天下を奪おうとしているというものだった。武内宿禰は神功皇后の新羅出兵や天皇の即位に尽力した功臣である。
●一度は誅殺するため使いも出されたが、ひとり悲しみながらも南海を通って帰国した武内宿禰は天皇の前で甘美内宿禰と抗弁して争った。
●判断がつかなかった天皇は磯城川のほとりに出て「探湯」を行わせた。結果、武内宿禰の無実が明らかとなり、敗れた甘美内宿禰は殺された。

探湯(くがたち)

窯で煮た泥の中に手を入れたり、真っ赤に焼いた斧を掌に置いたりする一種の占い。
真実を言う者は傷付かず、偽りを言う者は傷付くとされていた。

渡来人の受け入れ

●即位14年 弓月君秦氏の先祖)が百済から来朝して窮状を上奏し援軍を求めた。弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、その民は加羅に留まっていた。そこで葛城襲津彦を派遣したが三年経っても弓月君の民を連れて帰還することはなかった。

●即位15年にも百済の阿花王(阿莘王)が良馬二頭を阿直岐(あちき)に付けて献上した。
●阿直岐は阿直岐史の祖であり、経典が読めたので皇太子・菟道稚郎子の師となった。
●天皇はさらに優れた人物を望み、阿直岐から推薦された王仁(わに)を即位16年2月に呼び寄せ、皇太子の師とした。
●王仁は書首(ふみのおびと)の祖である。

●即位16年 新羅の妨害を防いで弓月君の民の渡来させるため平群木菟宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭が派遣され新羅国境に軍を展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来。
●即位20年 倭漢氏の祖・阿知使主(あちのおみ)とその子都加使主、並びに己が党類十七県を率いて渡来。

●即位22年 妃の兄媛が故郷の吉備に帰省したので、それを追って天皇自身も淡路・吉備・小豆島を行幸。
●即位28年 高句麗から朝貢があったが、その上表文が無礼だった為、菟道稚郎子が破り捨てる。
※『日本書紀』の注釈では、文書の事を「ふみ」と言うのはこの時の話に由来すると説明している。

武庫水門の火災

●即位31年 伊豆国から奉られた「枯野」という船が朽ちた為、それを焼いて塩を作り諸国へ分与し、また諸国から船を献上させた。
●しかしそれらの船を武庫水門に泊めていたところ、新羅の船の失火で類焼してしまい。新羅は恐れて謝罪として職人(技術者)などを献上した。この技術者たちは猪名部(いなべ)の祖先とされる。
●また「枯野」の焼け残りの材木から琴を作ると、その音が遠くまでよく音が聞こえたので天皇は歌を詠んだ。
※『古事記』では「枯野」の話は仁徳天皇の時代の話となっている。

●即位37年 阿知使主と都加使主は縫製女工(きぬぬいおみな)を求めるため呉へ派遣され、倭王讃の朝貢にも比定される。
●即位41年 呉から筑紫に帰った阿知使主に胸形(宗像)大神のお告げがあって工女を求めたので、兄媛を大神に奉った。

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