記紀神話

【ざっくり記紀神話】32.日本武尊皇子(ヤマトタケル)

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【参考文献】

『古事記』と『日本書紀』で大筋の話は同じだが、日本武尊皇子に対する性格や表現がかなり異なる。
『古事記』では、父(景行天皇)に疎まれる悲劇のヒーローとして語られているが、『日本書紀』では、父との関係はむしろ良好である。
ここでは、『日本書紀』版に比重を置いてまとめている。

【あらすじ/要約】

西征

●父(景行天皇)が以前平定した、九州で地方で再び叛乱が起きたので、16歳の小碓命にクマソタケル(熊襲建)の討伐を命じられる。

※『古事記』では、ここで叔母/倭姫を訪ね女性の衣装を授けられる描写がある。従者も与えられなかったとあるが『日本書紀』では従者(弟彦公)も与えられている。

●小碓命が九州に入ると、熊襲建の家は三重の軍勢に囲まれて新築祝いの準備が行われていた。小碓命は髪を結い衣装を着て、少女の姿で宴に忍び込み、宴たけなわの頃に熊襲の首長が川上梟帥(たける)を誅伐した、その際、川上梟帥から「日本武尊」の名を奉られる。
●川上梟帥を討伐後、日本武尊は弟彦公らを遣わし、その仲間を全て斬らせたため生き残った者はいなかったという。
●熊襲討伐後は毒気を放つ吉備の穴済の神や難波の柏済の神を殺して、水陸の道を開き、天皇の賞賛と寵愛を受ける。

※『古事記』では、熊襲討伐後、山神・河神・穴戸神を平定後、出雲に入り、出雲建と親交を結ぶ記述があるが、『日本書紀』では日本武尊の話の中では出雲は登場しない。

東征

●熊襲の討伐後、景行天皇は兄の大碓命を東征の将軍に任命するが、大碓命は怖気づいて逃げてしまい、かわりに日本武尊が立候補する。
●天皇は斧鉞を授け、「お前の人となりを見ると、身丈は高く、顔は整い、大力である。猛きことは雷電の如く、向かうところ敵なく攻めれば必ず勝つ。形は我が子だが本当は神人(かみ)である。この天下はお前の天下だ。この位(=天皇)はお前の位だ。」と話し、最大の賛辞と皇位継承の約束を与え、お伴に吉備武彦と大伴武日連を、料理係りに七掬脛を選ぶ。
●出発した日本武尊は伊勢に立ち寄り倭姫命より「慎みて、な怠りそ」と草薙剣を賜る。

※『古事記』と『日本書紀』で大分表現が異なるシーン。
 父の期待を一心に集めて東征へ出発する『日本書紀』とは異なり、『古事記』は「父は私に死ねと申されるのか」と涙しながら旅立つ。

焼津(地名)の起源

●相模の国で、相武国造に荒ぶる神がいると欺かれた日本武尊は、野中で火攻めに遭う。そこで火打石で、向焼(迎え火)を点け炎を退けた。
●生還した日本武尊は国造らを全て斬り殺して死体に火をつけ焼いた。そこで、そこを焼遣(やきつ=焼津)という。

●別に伝えでは、叢雲剣が自然に抜けて周りの草を薙ぎ払った為難を逃れることが出来たので、この剣を草薙剣と名付けたとされている。

弟橘媛の犠牲

●相模から上総に渡る際「こんな小さな海など一跳びだ」と豪語した為、走水の海(横須賀市)の神の怒りをかい、波を起こして日本武尊の船は進退窮まる事になる。
●そこで、后の弟橘媛が「これは海神の仕業です。私の身をあなたの命に代えて海に入りましょう」と入水すると、暴風はすぐに止み、一行は無事に上総国に渡る事ができた。

東国の蝦夷平定

●上総からさらに海路で北上し、北上川流域(宮城県)に至る。陸奥国に入った日本武尊は船に大きな鏡を掲げていた。蝦夷の首魁の島津神・国津神らはその威勢を恐れ、拝礼した。
●日本武尊が「吾は是、現人神の子なり」と告げると蝦夷らは慄き、自ら縛につき服従した。そして日本武尊はその首魁を捕虜とし従身させた。
●蝦夷平定後、日高見国より帰り西南にある常陸を経て、甲斐の酒折宮へ入り、連歌の発祥とされる「新治筑波を過ぎて、幾夜か寝つる」の歌を詠み、、武蔵(東京都・埼玉県)、上野(群馬県)を巡って碓日坂(群馬・長野県境。碓氷峠説と鳥居峠説がある)で、「あづまはや……(わが妻よ……)」と嘆いた。そこから東国をあづま(東・吾妻)と呼ぶようになったと言う。
●ここで吉備武彦を越(北陸方面)に遣わし、日本武尊自身は信濃(長野県)に入る。信濃の山の神の白い鹿を蒜で殺した後、白い犬が日本武尊を導き美濃へ出る。ここで越を周った吉備武彦と合流して、尾張に到った。

五十葺山の神

●尾張に入った日本武尊は、かねてより婚約していた宮簀姫を娶った。そして日本武尊は、伊勢の神剣である草那藝剣を宮簀姫に預けたまま、荒ぶる神であるという五十葺山(いぶきやま 岐阜・滋賀県境)の神を素手で討ち取ろうとして出立する。

●五十葺山の神と対決しに行った日本武尊の前に、大蛇に姿を変えた五十葺山の神が道を遮った。
●日本武尊は「主神を殺すから、神の使いを相手にする必要はない」と、大蛇をまたいで進んでしまった。

●神は雲を興し、氷雨を降らせ、峯に霧をかけ谷を曇らせた。毒気にあてられた日本武尊は意識が朦朧としたまま下山。
●居醒泉(山麓の関ケ原町?米原市?)でようやく醒めた日本武尊だが、病身となっており、尾津から伊勢の能褒野へ到る。

●ここから伊勢神宮に蝦夷の捕虜を献上し、天皇には吉備武彦を遣わして「自らの命は惜しくはありませんが、ただ御前に仕えられなくなる事のみが無念です」と奏上し、自らは能褒野の地で亡くなった。時に30歳であったという。

白鳥

●父/景行天皇は寝食も進まず、百官に命じて日本武尊を能褒野陵に葬るが、日本武尊は白鳥となって、大和を指して飛んだ。
●柩には衣だけが空しく残され、屍骨(みかばね)はなかったという。

●白鳥は能褒野→大和琴弾原(奈良県御所市)→河内古市(大阪府羽曳野市)に飛来し、その後天へと上っていった。
●白鳥が飛来した3箇所に陵墓が作られた。

●景行53年、天皇は息子を偲び、尊が平定した伊勢・東海地方・上総・安房の地を巡幸した。

日本武尊の墓

日本武尊 能褒野墓(三重県亀山市)... 前方後円墳。遺跡名は「能褒野王塚古墳」4世紀末築造?
日本武尊 (大和)白鳥陵(奈良県御所市)… 長方丘。「権現山」「天王山」とも呼ばれている。一説には円墳?
日本武尊 (河内)白鳥陵(大阪府羽曳野市)… 前方後円墳。遺跡名は「軽里大塚古墳」「前の山古墳」「白鳥陵古墳」5世紀後半築造?

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