記紀神話

【ざっくり記紀神話】26.初代 神武天皇紀③

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※『古事記』版は記述が少なく、詳細が分かり辛い為『日本書紀』版を元としています。

※神名などの表記も、極力『日本書紀』版に合わせています。

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【あらすじ/要約】

磯城の兄磯城と弟磯城

●磐余彦尊が磯城を攻めようとした時のこと、使者を派遣し磯城の首長である兄磯城(えしき)を呼び寄せたが、現れなかったので、八咫烏を遣わして誘い出すことにした。

反抗する兄と、降伏する弟(その2)

●八咫烏が「天津神の御子がお前を呼んでいるぞ。ほらほら!」と兄磯城を挑発すると、兄磯城は怒って八咫烏に弓を放って罵った。
●次に、八咫烏は兄磯城の弟・弟磯城の家に向かい、同じように彼を挑発しすると、弟磯城は恐れ八咫烏に食べ物をやると、すぐに磐余彦尊に降伏し、兄の計略を暴露した。

●磐余彦尊は部下を集め作戦を話し合った。
●兄磯城は賢い敵であった為、まずは部下の兄倉下(えくらじ)と弟倉下(おとくらじ)と弟磯城で説得に向かわせたが、従う様子がなかったため、椎根津彦が提案した武力を伴う計略を実行した。

●計略は成功し、皇軍は兄磯城を撃破した。

長髄彦との再戦

●皇軍は東から長髄彦軍を攻めたが、何度戦っても勝つことが出来なかった。
●両者とも一歩も譲らない戦いが続く中、不意に空が暗くなると、冷たい雨雹までも降ってきて混沌を極めた。

●すると、金色に輝く(とび)が現れ、磐余彦尊の弓先に止まり凄まじい光を放った。その光はまるで稲光の様だった為、長髄彦や敵兵達は目が眩んで倒れ戦意を喪失してしまった。

●「長髄」は元々は村の名前で、「長髄彦」とはそこの首長という意味であるが、今回の鳶の助け(吉兆)を得てからは、この土地を「鳶の村」と呼ぶようになった。
●現在「鳥見(とみ)」というのは「とびのむら」が訛ったものである。

●磐余彦尊は兄・五瀬命の恨みを忘れずにいて、この戦いでは怒りのままに(長髄彦を)殺そうと思っており、それを歌にして詠んだ。

櫛玉神饒速日命

●敗北の色が見えた長髄彦は、直ちに使者を派遣し磐余彦尊にたずねた。
●「昔、ここには天津神の御子がいた。天磐船に乗って天より降り、名は櫛玉神饒速日命(くしたまのかみにぎはやひのみこと)と言った。饒速日命は私の妹の三炊屋媛(みかしきやひめ)を娶り、子の名前は可美眞手命(うましまじのみこと)という。私は饒速日命に仕えているが、天津神の御子がなぜ二柱もいらっしゃるのか? なぜ天津神の御子と名乗って、他人の国を奪おうとするのか?私が考えるに、あなた(磐余彦尊)は、天津神の御子と偽っていらっしゃるのでは?」

●磐余彦尊はそれに答えて言った。
●「天津神の皇子は数多くいるが、そちらの御子(饒速日命)が本物ならば印を持っているはずだ。それを見せなさい。」

●長髄彦は すぐに饒速日命の天羽々矢(あめのはばや)一本と步靫(かちゆき=矢筒)を持って、磐余彦尊に見せた。
●磐余彦尊はそれを見て饒速日命が本物であることを認め、自分の印(天羽々矢と步靫)を見せた。

●長髄彦はそれを見て恐れ畏まったが、今更武器を簡単に収めることは出来ず、磐余彦尊と戦う考えを変えなかった。
●饒速日命は、天津神の序列が天孫(天照大御神の子孫)が優先されることを知っていたが、気難しい長髄彦に天の序列を伝えても、彼が受け入れる気配がないため饒速日命は長髄彦を殺してしまった。

●このように戦争をおさめると、国民とともに磐余彦尊に降伏し、政権を明け渡した。
●磐余彦尊は、饒速日命がもともと天降った者であることを知っていたので、磐余彦尊は忠義の意思を示した饒速日命達を褒めてもてなした。
●この饒速日命こそが物部氏の祖先である

土蜘蛛殲滅

●磐余彦尊が大和政権を掌握後も土蜘蛛と呼ばれる人々は従わずに刃向った。

●層富縣の波哆丘岬(そほのあがたのはたのおかさき=生駒市、奈良市赤膚町)の新城戸畔者(にいきのとべ)。
●和珥坂下(わにのさかもと)には居勢祝(こせのはふり)。
●臍見(ほそみ=天理市)の長柄丘岬(ながらおかさき=奈良県御所市長柄神社)の猪祝(いのはふり)。
●この三カ所の土蜘蛛は武力に任せて天皇に従わなかったので、天皇は兵の一部を派遣して全員を誅殺した。

●また、高尾張邑(たかおはりのむら)にも土蜘蛛が居た。
●彼らは身長が低く、手足が長い。侏儒(さきひと=小さく愚かな者)と似ていた。
●皇軍は葛を編み、それを使って殲滅した。それでその村を葛城(かずらぎ)という。

●磐余(いわれ)の土地の古い名前は片居(かたい)または片立(かたたち)というが、こちらも大軍をもって滅し磐余と改名した。

初代 神武天皇(=磐余彦尊)の即位

八紘を掩いて宇と為む

●磐余彦尊は言った。
●「私が東征に出発して六年になる。周辺はまだ静まっておらず、まだ勢いのある敵もあるが、大和国は騒がしくない。天津神に国を授けられた恩に報い、皇孫以後の歴代が養ってこられた徳を広める為、この大和の橿原の地(奈良県橿原市)に都を造営し、『八紘を掩いて宇と為む(天下を一つの家のようにしよう)』」と理想を掲げた。

媛蹈韛五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)

●また、出雲の事代主神の娘である媛蹈韛五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を皇后として定めた。
●大変美しい媛だった為、磐余彦尊は喜び迎え入れた。

即位

●そして、日向を出発して八年目にあたる※辛酉年(紀元前660年)の元旦。磐余彦尊は橿原宮(橿原神宮)にて即位し「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と称えられた。また、この年を天皇の元年とした。
 ※太陽暦でいう、二月十一日。戦前の「紀元節」、現在の「建国記念日」。

鳥見山の祭祀

●神武天皇即位四年、鳥見山(奈良県桜井市/等彌神社(とみじんじゃ))に「霊畤(まつりのにわ)」が設けられ、神武天皇自ら「皇祖天神=高皇産霊尊」を祀り「大孝(おやにしたがうこと)」を述べた。
●大孝は現在に続く皇室祭祀の起源として重要視されてきた。(宮中三殿)

大和巡幸 (秋津州)

●神武天皇即位三十一年、神武天皇は国内を巡幸した。
●そして、国の姿を見て「あぁ、良い国を得たものだ!蜻蛉(あきつ=トンボ)が交尾しながら飛んでいるようだ」と言ったことが元で「秋津州(あきづしま=日本列島)」と呼ばれるようになった。

わが国の別名

 神武天皇
  ・秋津州

 伊弉諾尊
  ・浦安の国
  ・細矛(くわしほこ)の千足(ちだ)る国
  ・磯輪上(しわかみ)の秀眞国(ほつまくに)

 大己貴大神
  ・玉牆(たまがき)の内つ国


 (天磐船に乗って大空を巡っていた)饒速日命
  ・虚空(そら)見つ日本(やまと)の国

神武天皇の崩御

●神武天皇は一二七歳で崩御し、畝傍山東北陵(奈良県橿原市)に葬られた。

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・霊畤
・大孝
・浦安の国  心安らかな国
・細矛の千足る国  良い武器が沢山揃っている国
・磯輪上の秀眞国  秀眞国=優れ整っている具わっている国
・玉牆の内つ国  美しい垣のような山々に囲まれた国
・虚空見つ日本の国
・天磐船
・畝傍山東北陵

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